河野『新しい声を聞くぼくたち』

河野真太郎(こうの・しんたろう), 2022, 『新しい声を聞くぼくたち』講談社.

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読書メモです。細かい点の指摘で、議論の大筋を否定しているわけではないのでご注意ください。

全体の評価

とりあえず多くの作品を並べて分析していく手腕は流石であった。同時に仕方ないとはいえ、特に読んだことがある作品の読み方に説得力を感じなかった。ただし、間違っているとも思わないので、字数制限の問題に過ぎないかもしれない。それよりも気になるのは、障害と同性愛の雑な扱い方である。障害の社会モデルをジェンダーの社会的構築の方に寄って解釈しすぎて、障害の社会モデルを収奪しすぎていると思う。新自由主義による社会モデルの収奪を論じているが、河野(こうの)本人が健常者的に収奪しているので、むしろ新自由主義の免責(河野(こうの)の収奪の仕方と比べたら、新自由主義の収奪のほうが、まだましと言えさえする)に繋がってしまう。規範からの性的な逸脱とされるものを全て、同性愛に結びつけ過ぎだとも思う。種が異なる者同士の性関係を同性愛に結び付けて語るには、日本語で書くならばもっと丁寧に説明するべきだっただろう。また、BEASTARS(びーすたーず)の記述では異性愛関係を前提としたような論理展開になっており、これは流石に作品や文化の問題には出来ないだろう。作者の論述の問題に思えた。これらの問題は、もしかしたらクィアやクリップの意義を二項対立の脱構築に限定かつ遷移させてしまったところにもつながっているかもしれない。そもそもクィアやクリップの意義は二項対立の脱構築ではなかったし、二項対立の脱構築だけでもなかった。しかし、クィアでもクリップでもないかもしれない筆者にとって大事なのは、健常者への影響や異性愛者(ここでシスジェンダーなどの観点はおそらく落ちている)への影響ばかりを考えているように見える。「みんなクィアやクリップ」という方向にもっていって、クィアやクリップの意義を収奪しているとも読める。というよりそのように感じた。

 

ちなみに、収奪という言葉は、河野(こうの)が使っている。

この解放的であったはずの思想が、新自由主義的な「障害者のワークフェア」体制において収奪され、インペアメントとディスアビリティを就労可能性によって二枚舌的に切り分ける新たな「健常者主義(ableism)」に帰結している

河野真太郎(こうの・しんたろう), 2022, 186-7.

 

脱構築

クィアやクリップは時には二項対立を脱構築してきた。しかし、それはそれらの本質ではないと考える。クィアセクシュアリティ(とジェンダー)のはなしであり、クリップは障害のはなしである。クィアは元々ゲイ男性への侮蔑語だったのであり、クリップは障害者への侮蔑語だったのである。劣位に置かれた者たちが、その劣位に置く行為を問い直すために使っていた、というのが出発点である。問い直しのなかで、二項対立を脱構築するかもしれない。しかし、それには限らない。二項対立を脱構築しないなら、アイデンティティの用語を使えばいいと考えるかもしれない。つまり、ゲイやレズビアンバイセクシュアル(とトランス)、または障害者、身体障害者知的障害者精神障害者という用語をつかって議論すればいいと考えるかもしれない。しかし、クィアやクリップについては他の意義もある。幅広い連帯を呼びかけることや、まさに劣位に置くことを問題にすることなどである。

 

醜さについて

つまり、男性の醜い身体と障害はどこかでゆるやかに接続されています。このゆるやかな接続は二重の意味で差別的であることを断っておきます。男性的身体を醜いものとすることだけではなく、障害者の身体を醜いものとするのですから。

河野真太郎(こうの・しんたろう), 2022, 033.

実はこの接続は二重ではなく三重の意味で差別的である。なぜなら、醜いことが劣位として考えられているからである。このような差別はルッキズムという名前さえついている。このことが指摘しないことは、河野真太郎(こうの・しんたろう)の議論にとっては特に問題ではないだろう。ただ、差別を捉えられていないというだけのことだ。

 

異性愛規範

これに対しては、「そのように読む(男性身体と「醜さ」という要素で接続していると読む)こと自体が差別的である」という反応がありそうです。これは、「女性が差別されていると考えること自体が差別的である」や、「ある職業が虐げられていると考えることが職業差別だ」という論理と同形です。個々の表現について、この批判が妥当である可能性は常に検討せねばなりませんが、逆に、この論理が社会に実際に存在することに対する恫喝のようになってしまっても問題でしょう。

河野真太郎(こうの・しんたろう), 2022, 033-4.

引用で主張されている通り、差別的な読解かどうかは個々の表現について検討しなければいけない。

さて、河野(こうの)はBEASTARS』(びーすたーず)について次のように述べる。

食べる行為とセックスの区別がつかないとすると、そのセックスは必ずしも異性間のものとは限らなくなるからです。

河野真太郎(こうの・しんたろう), 2022, 100.

セックスは食べる行為と区別がつかなくとも、異性間のものには限らない。このように述べることで河野(こうの)はこの作品に「同性愛嫌悪的な構造」(100)があることを検討することに至る。しかし、この順番は特に必然的なものでもない。単に食べることとセックスの区別のつかなさをレゴシのハルに対する態度から指摘して、リズがテムを食べることをどう読めばいいかを問い、ここに同性愛嫌悪的な構造があると論じることも可能だからである。もちろん、このような展開の違いによって、同性愛が「肯定的に導入されているのか、それとも否定的に導入されているのか」(100)という問いが出せなくなる、といえる。しかし、それと対比して入れるべき要素が上の引用の「…とすると、セックスは必ずしも異性間のものとは限らなくなる」という異性愛規範的な文章だとは思えない。

ここは、作品の読みですらない。問題なのは、河野(こうの)の文章だからだ。作品自体にセックスは異性間のものであるという前提があると河野(このう)が主張しているわけでもない。ということで、上で引用した再反論も意味がない。

 

障害の社会モデル

河野(こうの)はまず障害の社会モデルを説明し、インペアメントとディスアビリティの区別をセックスとジェンダーの区別と比較する。そして、『英国王のスピーチ』を分析していく。長くなるが引用する。

物語は、その序盤から、アルバート=ジョージ六世の吃音がインペアメントであるのか、それともディスアビリティであるのか、という問題設定を提示します。ライオネルはアルバートの吃音の原因を探るべく、彼の子供時代の記憶を語らせようとします。ずっと吃音だったと言うアルバートに対して、ライオネルはそれは違う、吃音は後天的なものだと言います。それに対して激高したアルバートが口走るのが、「これは私の吃音だ!(It's my stammer!)」という台詞なのです。

このやりとりは、吃音の先天性/後天性というよりもむしろ、インペアメントとしての、本質的アイデンティティとしての障害と、社会的なディスアビリティとしての障害という問題系を導入しています。実際、物語の後半で、父王が崩御した後にアルバートがライオネルに告白するところでは、吃音の原因は彼が左利きやX脚を矯正されたこと(また、乳母に虐待されたこと)でした。つまり、彼の吃音の原因は、左利きやX脚といったディスアビリティ(いずれも明確に社会的・文化的に「創造」された障害である)の矯正だったのです。少々遠回りの手続きを踏んでいますが、吃音は、ディスアビリティの否定という社会的原因によって引き起こされたディスアビリティなのです。現在の私たちならある程度当然だと思うでしょうが、左利きを私たちはもはや障害としてはとらえません。それはむしろ、「個性=差異」としてとらえられます。それは左利きが厳密な意味でのディスアビリティとしてとらえられていることを意味します。その「厳密な意味」においては右利きもディスアビリティなのですが、たとえばほとんどの鋏が右利き用であることによって、右利きはディスアビリティとして意識されなくなり、左利きが意識されるようになるということです。左利きやX脚の矯正は、ディスアビリティであるはずのものをインペアメントとみなして「治療」しようとすることなのです。

河野真太郎(こうの・しんたろう), 2022, 186-7.

このような記述は、インペアメントとディスアビリティの一般的な使い方とは異なる。河野(こうの)自身が指摘するように、この使い方はセックスとジェンダーの区別のような使い方である。ジェンダーでしかない属性、たとえば女性の家事労働への適正なるものをセックス、つまり自然なものとして考える、というような記述と似ている。

 

しかし、障害学などでは、「インペアメントが制度などによってディスアビリティにされる」というような記述が典型的である。目が悪いということはインペアメントだが、文字が小さいということによってディスアビリティになり、目の悪い人が不利な影響を受ける、というような議論が障害の文脈での基本的な使い方である。これらの概念を使う障害の社会モデルは飯野由里子(いいの・ゆりこ)の『ポリティカル・コレクトネスからどこへ』(清水晶子(しみず・あきこ)、ハン・トンヒョンとの共著)(2022)によると「障害者が経験する不利の原因を障害者の心身状態にではなく、社会の設計のされ方に見出そうとするもの」(9)である。

 

インペアメントとディスアビリティという概念は、なんらかのあり方が自然な構築されていないものか社会的に構築されたものかということを区別するものではない。ディスアビリティという概念はインペアメントと不利をつなげているのは社会の制度であるということを示すためのものである。問題なのは、目が悪いことではなくて、文字が小さいことである。問題なのは、どもることではなくて、またどもるようになった原因でもなくて、どもることが醜く悪いものであると考える人びとであり、スピーチをしなければいけないという状況である。(ちなみに、王制というのがそもそも王を特別扱いすることで民衆を差別する制度である。)そのように考えるのがディスアビリティという概念の基本的な使い方である。このように考えれば、新自由主義において求められる能力が変わり、障害者と健常者の線引きを変えたと言う議論もスムーズに展開できる。

 

もちろん、インペアメントとディスアビリティをセックスとジェンダーという概念のように使うことでうまい議論ができる可能性はある。しかし、それをするならば、そのことを明示する必要がある。なにせこの本は障害学の専門家に向けて書いている訳ではないのだから、これが一般的な使い方と勘違いさせてしまう可能性があるからである。さらに、このような無理な概念の使い方をする議論の利点もあまり分からない。インペアメントとディスアビリティを持ち出さなくても議論できそうでもある(面倒くさいので再構築するのは控えておく)。

 

 

作者はもっと自身の持っている偏見や前提を検討する必要があると思うが(もしそうではないなら、文章について意識した方がいいと思うが)、障害とセクシュアリティの問題を扱おうとしているという点は評価できる。